大洲市の概要
大洲(おおず)市は、愛媛県の南予地方に位置し、「伊予の小京都」と呼ばれる城下町です。平成17年(2005年)に、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併して大洲市が誕生しました。県の西部に位置する大洲市は、周辺地域への交通の要衝となっています。肱川とその支流の河辺川が中央を流れ、流域に沿って田畑や集落・市街地が形成されています。また、中央部には大洲平野が開け、西部は瀬戸内海伊予灘に面しています。大洲市では、4つの地域に分け、大洲地域を「文化かおる都市拠点と農業交流ゾーン」、長浜地域を「海の幸と活力のまちゾーン」、肱川地域を「湖と里山定住ゾーン」、河辺地域を「山の幸と文化の源流ゾーン」とし、相互に連携を図りながら整備を進めています。
大洲のあゆみ
大洲地方には、紀元前1万年頃から人々が住み始めたと考えられています。縄文・弥生時代には、食糧事情が安定し、巨石が崇拝され、東洋一といわれる高山のメンヒルをはじめ、市内50数ヶ所に巨石や巨石群が構築されました。
大化の改新によって設けられた地方制度によると、大洲は伊予国宇和郡に属し、貞観7年(866年)には独立して喜多郡となりました。喜多郡は、矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷の3郷に分かれていました。源平の合戦では、喜多郡もその戦乱の渦中に巻き込まれ、文治元年(1185年)、河野通信が比志城に立てこもり、平氏の攻撃を退けました。
鎌倉時代に入ると、大洲地方を治めたのは伊予国守護宇都宮豊房でした。元徳2年(1330年)の着任から約240年間この地を支配し、豊房は、大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いたとされています。その後、乱世を反映し、大野直之・小早川隆景・戸田勝隆らが相次いで城主となりました。文禄4年(1595年)には、戸田勝隆に継いで、豊臣秀吉の重臣である藤堂高虎が、板島(宇和島)から大津(現大洲)に入りました。大洲城を近世城に改造したのは、藤堂氏から脇坂氏時代とみるのが妥当と考えられています。現在復元している大洲城天守の造営は、脇坂氏が行ったとみるのが一般的であるといわれています。
日本の陽明学の祖で、「近江聖人」として慕われた儒学者・中江藤樹(とうじゅ)が10歳のとき、加藤貞泰とともに大洲に移り、27歳まで大洲で暮らし、勉学に励み、門人たちに「大学」を教えました。「人の道」を説いた藤樹の教えは、今も大洲の人々の心に深く刻まれています。
明治の先覚者として、国学者の矢野玄道(はるみち)、明治憲法制定に尽力した香渡晋(こうどすすむ)、シーボルトに仕えた医学者の三瀬諸渕(もろぶち)、函館五稜郭(ごりょうかく)を設計した武田成章(しげあや)など多くの偉人を輩出しています。かつては、手すき和紙、木蝋(もくろう)、製糸業が盛んで、現在でも和紙は大洲和紙として、蚕糸は良質の伊予生糸として知られています。また、肱川のもたらす肥沃な土壌を利用した農業も盛んです。
昭和29年(1954年)に、喜多郡大洲町・平野村・粟津村・三善村・上須戒村・南久米村・菅田村・新谷村・柳沢村・大川村が合併し、市制施行して大洲市となり、大洲市・喜多郡地域の行政の中心地として栄えていました。その後、平成17年(2005年)に、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となり、新たに歩みはじめています。
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河辺地域活性化センター |
| 住所: |
〒797-1608
愛媛県大洲市河辺町北平1203 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0893-39-2111 |
| 開館時間: |
8:30〜17:00 |
| 休館日: |
月曜日、祝祭日の翌日、12月29日〜1月1日 |
| 入館料: |
無料 |
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